ダイアリィズ イン ヴィエトナム(2)

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2019年9月17日(火)
ホーチミン市内を散策。
くもり時々雨。

ベトナム2日目。ダラッと起きて、朝食を食べて、甘いコーヒーを飲みながらさぁ今日は何をしようかなとのんびり考える。出発前に宿は最初の2泊分しか予約していなかったので、明日から何をするかも考えなければならない。海外って、こんなに無計画でも行けちゃうもんなんだね。せっかくなのでホーチミンの外にも出てみたい。海側に行くか、内陸に行くか。地球の歩き方をペラペラとめくってみたら、ホーチミン中心部、サイゴン川の船着き場から船で片道2時間のところにあるブンタウという海沿いの街を見つけた。良いじゃない。ベトナムの海を見に行こう。

とりあえず船のチケットを確保しておくことにした。デパートや高級ホテルが並ぶドンコイ通りのエリアと、日本町があるレタントン通りのエリアからそんなに離れていない場所に船着き場がある。片道200,000ドン。日本円にすると大体1,000円くらいだが、これでもバスの2倍の金額だ。明日の12:00に出航する全席指定の高速船。明日は宿から船着き場までGrabでバイタクを手配してみよう。

信号のない大通りの横断歩道を渡るたびに死を覚悟する。あっちからもこっちからもバイクの大群がひっきりなしに押し寄せる路上。往来はちっとも途切れない。いったいどこからこんなにも湧いて出るんだ。最初、あまりの渡れなさにしばし絶望。そんな哀れな外国人を横目に匠の技で渡る現地民。あの動きは何だ。目の前で何が起きた。えぇいモノは試しだ、真似して渡ってみる。一気に渡ろうとすると轢き殺されるので、往来の隙間を見ながらじりじりと路上に出ていく感じ。バイクがこちらの動きを予測できるように一定の速度で動きつつ、バイクが進む進路を予測して隙間に入り込んでいく。体の30cm前と30cm後ろをバイクがビュンビュン駆け抜けていく。バイクはいくらでも反対車線を逆走してくるので、あっちを見ながら、こっちも見ながら。渡り始めたら後戻りはできない。ただ進むしかない。そしてようやく渡り切った時の安堵感と言ったらもう最高。生きて渡ることができた。俺は道を渡ることができた!何だこの達成感。あの大群と一体になる気持ちで渡れば良いんだ。バイクが止まってくれるなんて思っちゃいけない。ここベトナムではバイクと歩行者が阿吽の呼吸でクロスするんだ。大通りを渡るとはそういうことである。ここに住んだらいつか死ぬなと思った。

レタントン通りのエリアには日本町というエリアがあると聞いていたので見に行ってみる。細い路地に入ると、そこは日本語の看板があちこちに掲げられた空間。それも日本語風って感じではなくて、本当に日本人が経営していると思われる店舗があちこちにある。そして随所で客引きするマッサージ。スナックとかガールズバーも多い。夜になったらどんな雰囲気になるんだろう。どうせまたホーチミンには戻ってくるから、この近くに宿を取ったら面白そうだなと思った。

昨日バスの車窓から見えた巨木のある公園に立ち寄って、その向かいにある歴史博物館に入ってみる。内容はホーチミン市の歴史と、ベトナムがいかにして社会主義を「勝ち取ったか」という紹介。古い洋館を使った博物館で、木製の階段や調度品が美しい。結婚式の前撮りをしているカップルがいたけど、あれは東海地方の人間が明治村で前撮りする感覚に近いのだろうか。地下には地下壕、庭には戦車とヘリと戦闘機。この建物が戦争を経験した証。展示物の中に「ベトナム戦争を記録したカメラ」としてボロボロのCanon FTが展示されていたけど、中古のカメラ屋さんに行けばまだ手に入ることを思うと何だか感覚が狂うなぁ。博物館の周りは観光地なので、色んな客引きが次から次へと声を掛けてくる。ハローミスターどこから来たんだい?から始まって、路上でココナッツジュースを売ろうとしてくるか、バイタクに乗せようとしてくる。謎の靴磨きのオッサンは俺のサンダルを脱がそうとしてきた。やめろ!と怒鳴りたい気持ちを抑えて、必要ないからいらない、バイバイ!と言って立ち去る。首からカメラを2台もぶら下げている時点でこれはもうしょうがない。せめて冷静な態度で対応したい。

あとはダラダラと、歩いて疲れたらコーヒーを飲んで、また歩いたらビールを飲んでの繰り返し。現地の人たちが口にしているのだから大丈夫だろと言って道端の屋台で飯を食う。バックパッカーが集うエリアを離れると急に英語が通じなくなるけど、意外と意思疎通ができてしまうのが本当に不思議だ。例えば日本語が話せない外国人が日本に行って、そこら辺の定食屋やコンビニに立ち寄った時、バイトくんたちは同じように意思疎通ができるのだろうか。昔の自分だったら無理だと思った。この差は何だろう。もしかしたら人はルールやマニュアル、完璧主義に縛られるほど柔軟性を失うのかもしれない。だって何から何までグチャグチャなこの街で人々が生きていくには、今の自分よりもずっと柔軟で濃厚な人間付き合いと、そして何より適度に適当であることが必要だと感じたから。仕事や日常生活でいちいちカリカリするのが馬鹿らしくなってきちゃうね。